最後の授業に寄せて-Na na na na hey hey hey goodbye-

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卒業間近の3年生。彼らを受け持ったときは、最後の授業にいつもする話がある。
今回で、2回目。
もちろん学力層が違うので、出だしは前にやった時と違うけど…
私の思う、「何故、中学高校と英語を学校で勉強しなきゃいけないのか?」という問いへの答えだ。
時間は約7分の、長い長いスピーチ…文章になります。

「最後の7分間は私にください。これが最後の授業になるからです。
私は今年で14年間、教師としてやってきました。
大学を卒業して、1年間ニート・フリーターやって、そのあとこの業界に入ってから、ずっとです。
その間、いろんな高校に行きました。
偏差値が高いいわゆる『進学校』に行ったこともあるし、反対に勉強が苦手な子が大半の学校にも行きました。
前に行っていた学校で、ある男子生徒が私に言いました。

『先生、俺就職組やし、職場はたぶん工場やし、英語なんかいらんやん。
俺んち金ないから海外旅行もせえへんし、なんで学校で英語なんてやらんといかんのん?
なんで先生の授業なんか受けへんとあかんのん?』

私は、その子に対して、『英語を学校で学ぶ意味はあるよ』と言いました。
今、私は、君たちに対しても同じことを言います。
君たちのほとんどは大学進学を目指しています、だから入試のために英語を一生懸命勉強しています。
じゃあ、大学入試が終わったら?
大学入試が終わったら、君らの勉強してきたことはもういらなくなるんですか?
そうじゃないよ、ってことを、私は君たちに言いたいと思います。

理由は2つ。
ひとつめは、『可能性』についてです。
君たちの人生には、たくさんの可能性があります。
でも、その可能性のなかには、選ばない可能性もあるわけです。
お金がないから、保護者に反対されているから、単にシュミじゃない、やりたくないから…
でも、この世の中には、英語ができることで選べる可能性がたくさんあるわけです。
例えば、私であればこれです…
これは、アメリカで出版された、インターネットを使った学校での勉強の本です。
私が教師になってからずっと個人的に勉強してきたのは、
『コンピュータやインターネットを使って、生徒のみんなが勉強しやすくなる方法』です。
この分野は、アメリカのほうがずっと進んでいます。たくさん本も出ています。
でも、それを誰かが日本語に訳してくれるかなんて、わからないですよね?
けれど、私は英語が読めます…だからこの本が読めます、ここに書いてある新しいことを学べます。
つまり、英語というもので、『自分の言葉じゃ得られない、新しい情報を得る』という可能性があるわけです。

それだけじゃありません。
将来、海外へ勉強しに行きたくなるかもしれない。
となりに引っ越してきたフィリピン人の家族が何か困っているとき、助けてあげられるかもしれない。
職場で一緒に働くメキシコ人と、仕事のプロジェクトでいろいろやりとりするかもしれない。
自分のシュミの本を海外から取り寄せて、英語で読むかもしれない。
ヨーロッパの街並みが見たくて、海外旅行にいくかもしれない。
イタリアから来たキレイな子に恋をして、いっぱいその子と話したくなるかもしれない。
アフリカにボランティアに行って、現地の子にいろんなことを教えてあげたくなるかもしれない。
大好きな歌手の歌を、英語で歌いたくなるかもしれない。
急に家族で引っ越しになって、カナダで暮らすことになるかもしれない。

いろんな可能性がある。
それを、ハナから、『私英語なんてできへんし』っていって、みすみすつぶすのはもったいない。
『ちょっと面白い仕事あるんやけどやってみいひん?英語少し使うけど』って時に、
はじめからその可能性を捨てるのももったいなくないか?
英語表現Ⅰって授業を、私たちは1年でやった。
実は、あそこに出ている文法で、今言ったような身の回りのことがけっこうできるんだ。
もちろんもっと難しい文法項目もあるけど、それはそういうのが必要になったら勉強すればいい。
単語だってそう、君たちは入試のためにたくさん単語を覚えてきた。
言ってみたら、君たちは『500色の色鉛筆』をもっているみたいなもんなんだ。
500色もあれば、いろんな絵が描けると思うよ。
当然だけど、500色の色鉛筆を持っているからといって、
いきなり漫画家さんや画家さんみたいに、超キレイな絵が描けるわけじゃないよね?
キレイな絵が描きたいなら、そりゃあ練習が必要だよ。
英語だって同じ。うまく使うためには、練習が必要。
だから、そうなりたいなら、練習すればいい。それだけ。
せっかくの500色の色鉛筆、はじめから『もう必要ない、いらないし』って言って押入れにしまって、
可能性をたくさんつぶしちゃうのはもったいないな、って、私は思います。

ふたつめは、こんなことを言うとおおげさに思えるかもしれないけれど、『世界平和』のためです。少なくとも、私はそう思っています。
昔、古代ギリシャでは、『バルバロイ』という言葉がありました。
これは、古代ギリシャ人が、自分たちを『ヘレネス』…女神ヘレネの子孫と読んでいたのに対して、
異民族のことをそう呼んでいたのです。
『バルバロイ』の意味は、「わけわからん言葉を話す連中」…
なんだか、すごく自分たちとは切り離した言い方ですよね。
まるで、別のイキモノみたいな扱いだ。

でも、もし、古代ギリシャ人たちが、彼らの言葉をわかったら?
そうしたら、例えば仕事をがんばっていたり、家族を大事にしていたり、
好きな人のことで悩んだり、そんなカンジの…
自分たちと同じ人間だ、そういうことがわかったんじゃないでしょうか?

使っている言語の違いが、人の間にミゾを、対立を生んでしまうことは、この21世紀ですらずっと続いています。
日本ですら、そうです。
例えば、愛知県にはトヨタの工場がある、ブラジルから家族を連れて出稼ぎに来た人たちがたくさんいるわけです。
その時、言葉が違う、まわりにあふれる日本語の洪水に、どうしていいかわからなくなる。
子どもたちも、学校の授業についていけなくて、友だちとうまくやっていけなくて、
学校に行かなくなってしまう…そして、仕事を見つけるのが難しくなる。
前からすんでいた日本の人たちも、新しくやってきたその人たちがしゃべっているのがポルトガル語だから、
なんだかよくわからなくって、怖く感じてしまう。

けれど、お互いが、お互いの言語を理解しようとしたら…
相手の言語を少しでも学べば…
相手の望みがわかれば、自分の考えも伝えられると思えるし、
何か問題があったときも、一緒に考えていける。助け合える。
ばらばらで、対立するんじゃなくて、一緒にうまくやっていける土台ができるんです。
もちろん人間同士だから、そのやりとりが実るときもあるし、決裂するときもある。

でも、まずそのはじめの第一歩。
それが、言語じゃないか。
表情や音楽やジェスチャー、ダンスでしか伝えられないこともある。
けれど、人間同士でのやり取りで一番大きいのは、『言語』。
だからこそ、いろんな人間が一緒にやっていくために必要な道具として、
学んでいかなきゃいけないんです。
自分たちの言葉だけではなく、違う言葉も。
だから、学校で、世界で使う人が多い言葉の一つとしての、『英語』を。

その『英語』をつかって、自分とは違う母語をもつ人たちとうまくやれたら…
それだけで、ちょっと世界は平和になるんです。
そのために、君たちは小学校から英語を学んできたんだ、
私は、そう考えています。

どう使うかは、君たちしだい。
だけど、私は、君たちが英語を使うか使わないかにかかわらず、
君たちがずーっと英語を勉強してきたことには、意味があると思っています。
できるなら、いろいろ使ってみて欲しいな、って思います」

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