あくちぶ・らーにんぐについて勉強してるけど
…っていう、ぼやきです(´・ω・)
「アクティブ・ラーニング」と言う言葉の裏には、「今まではパッシブだった」というのがあるのだろうか。
「主体的に考える力を今までの教育は付けてこなかった」と考えているのだろうか。
本当だろうか。
主体的に考える力は、何もないところからは生まれてこないような気がする。
いろいろな「技術」「知識」を学んだうえで、それを使いながら…というのが筋なわけで。
今までの授業は、本当にそうじゃなかったのだろうか。
例えば、小学校の国語の授業でも、「ワク」(最初に教科書の文から「キャラの感情を表す言葉」を描きだす⇒次のワクに「この結果キャラはどうしたか」を描きだす⇒…みたいな感じで、思考のテンプレートを与えて分析さす)とか、先生がプリント作ってくれてやった気がする…
それって、テンプレートっていう技術与えているわけで。
昔の先生だって、やってたことと、何が違うんだろう。
また、「アクティブ・ラーニング」事例には、「みんなで話し合って結論だそぉね☆」みたいなのが結構あるのだが、
私の前からの疑問として、「緘黙症とか自閉傾向強い奴どうしたらいいの」ってのがあって、それはどう解決しているのだろう。
その場にいるだけでいい?
パッシブOK?その子だけ?
また、そこまで症状が強くいかなくても、例えば私のように、
「考えて結論を出すのに長い時間がかかる」生徒はどうしたらいいんだ?
私は、そこそこ多めの知識があるが、それを練り上げてかたちにするには、時間がかかる人間だ。
当意即妙に意見を出せなきゃ、授業中に間に合わないなら?
あと、昔の「経験主義」の時代の教えとは、何が違うかもしっかりわかりたい。
生徒って、そんなにビンビン意見出さないような気がする。
それとも、理論だってない思い付きとかでもいいのか?
それを裏付けする思考力とかが、アクティブラーニングが求めているものではないのか?
すぐ出ないなら?
アクティブラーニング実践例として出てきていることは、この言葉が「流行り始める」前に、実践例として出されていたものと、どう「派手に」違っているのか?
どう「派手に」効果が違っているのか?
それがわからない。
私が小学生のころも、授業で話し合いとか、意見の分類とか、した気がする。
発表活動もした、図書室で調べ学習もやった。
昔のはアクティブラーニングと呼ばないのか?それとも呼んでいいのか?
なら、何故、「アクティブ・ラーニングにしないと!」という呼びかけがされるようになったのか?
私にはよくわかっていない。
本を読んでもわからない。研修会にいってもわからない。
「今までと『これを変えたから』効果が上がった」それが何なのかがわからない限り、私は動けない。
だから、私は困っている。