15年を終えて、そして16年目を迎えるにあたって

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私がこの職に就いてから、15年が過ぎた。
この4月から、16年目が始まる。

私は大学卒業時、次の行き先を持っていなかった。
世はまさに氷河期時代、特に女子はお先真っ暗な時代だった。
私も就職活動はしたが、結局どこにも行く先はなかった。
なんで「ついてない」だけで落とされる率が上がるのか、まったく世間ってのはクソだな!と思いながら
がんばってエントリーシートをたくさん書くも、全て無駄だった。
他の家庭のように大学院に行くなどできず、私は大学を卒業し、ゼロになった。

数か月間の無為な生活は、私を焦らせた。
このままじゃいけない、稼がなきゃいけない。
でも新卒カードももうない私が、一体何ができるって言うんだ?
その時私は思ったのだ、
こうなったら、一度諦めた英語科教員に挑戦してみよう、と。

私は外国語大学に進学した。
高校の時に思っていたのは「語学を活かして稼げる仕事につければ」
教員はその筆頭だった。
しかし、私は大学に入って、それをいったん諦めたのだ。
私には語学の才能はなかった。
特に、音声面に関する力が低く、
予習復習をたくさんたくさんしても、バイトに明け暮れ勉強時間取れない同級生に簡単に追い越された。
だから私は思ったのだ。
「語学の才能がない私なんかが、教員になるべきではない」と。

しかし、それでも教員免許は私が唯一持つ資格だった。
何とかアルバイトで社会性の喪失を防ぎつつ、私は教員採用試験の勉強を始めた。
その夏は普通に試験には滑った。
大学のゼミの先生の紹介で、次の年4月から大阪府立高校で常勤講師として働くことができるようになった。
そこは、大阪一悪名高い学力困難校…「底辺校」であった。
まあ、私が行ったときには大分波が引いていたころだったが…
それでも、廊下に転がって寝ている(!)生徒を起こして教室に連れて行ったりするような環境、
トイレの個室がいくつか鍵ロックされており、しかしながらその中でたばこの吸い殻が見つかるような環境は、
今までの私の人生には存在しなかった。相当なカルチャーショックだった。
だから、私は、「こんな世界で生きていけるんだろうか…」と、自らを不安に思ったのだ。

それから、15年が過ぎた。

常勤講師・非常勤講師として4校、
やっと採用試験に受かっての初任校で4年、
現在の勤務校で7年目。
それこそ偏差値38から63まで、いろいろな場所に行ってきた。

転勤するとしたら、あと1度か2度くらいだろうか。
私が生きるのをあきらめてしまわなければ、3度くらいはあるかも。
どうだってかまわない、先のことはわからない。
私を取り巻く環境も、私に対して期待されるものも、どんどんと変わっていく。
16年目も、同じように。

私の教員としてのモットーは、“one of PEOPLE WITH NO NAME”
「無名の衆生の一人」

どこにいっても、それなりにやっていこう。
どこにいったって、私のやることは変わらない。
私の仕事は、「生徒と同僚と保護者を助ける」ことだから。

明日は、始業式。
私にとって、16回目の1学期始業式、そして新学年の始まりだ。

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