Na na hey hey good bye 2016

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私の考えは昔からすごくシンプルで、変わっていなかったりする
そう、教員13年目になっても変わらない
すなわち、
「語学は努力が必要」
「外国語能力は母語を凌駕しない」
「母語の影響は外国語学習にもあらわれる」

「語学は努力が必要」だから、
努力のしやすい環境を作るべきだ
留学とかの「金銭的に恵まれている者」向けの手段というわけではなくて、
一般的な生徒…そう、私が勤務している「公立の高校」の生徒の大多数のように…向けの、何か。
その希望を私はテクノロジーとインターネットに見出している。

「外国語能力は母語を凌駕しない」 から、意識した学習が必要だし、いいたいことがなかなか言えずイライラすることもあるだろう。
そういう、自分の無能感にさいなまれる時間から、言語学習は逃れられない。
生徒の能力もばらばらだ、全員がスカッとできるようにはなかなかならない。
だからこそ、「『まだ』できない生徒も、『もう』できる生徒と一緒に」教室で学ぶため、
教え方の工夫やテクニックは絶対に必要だ。
それを私はもっと磨かねばならない。

「母語の影響は外国語学習にもあらわれる」から、どうしても日本語の影響からは逃れられない。
ドイツ語とかのヨーロッパ系言語が母語の者と、日本語が母語の者だと、やっぱり学ぶ過程に難度の違いは出ると思う。
だっていろいろなルールが似通ってるもん、向こう。
私は思う、どうして英語教育法で「英語が母語じゃない国(さらに言うと、ヨーロッパ系言語じゃない言語が主に使われている国)」での教え方実践があまり顧みられないのか。
私たちの住んでるこの国もそう…
英語が来て100年以上、どうして先人の頑張りを見ない振りするの?

「先人の頑張りを見ない振り」ってのには、最近はやりの「アクティブラーニング」連呼にも感じているんだ。
前に私が感じた疑問は、まったく解消されていない。
すなわち、「今までの教育の『何』がダメで(そしてそのダメ度はどう測った?)、だから『どう』変えるべきなのか?」

私はいろいろ知りたい。
少なくとも、高校での英語教育だって、いろいろな変遷を経ている。
全部無駄だったとは到底思えないし、学ぶべきこといっぱいあるだろ。

日本語のように英語と文法的に距離がある言語をメインとする国で、どう英語は教えられているだろう?
学ぶべきこと、たくさんある。

私は留学はしない。
「その国」に行って学びたい!と思うことが、今のところないからだ。
そして、それはたぶん、この国の「大多数の高校生」と同じではないだろうか。
それは責められることだろうか。

そうではないだろう。
この国の中でできること、たくさんある、と思う。

もっと学ばなければならないことは、私にとってそう思えることは
「私の足元」にある。
そして、それを可能なら精製して、今の生徒にあう何かにしたい。

私は、足元を掘り起こす。

My last quarter is going to start next year.
私がやりたいと思っていることが、世間の流れから外れていればいるほど、後々それはおもしろいことになるだろう。

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