言語と野球と

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英会話学校の広告に、必ず入っている一文がある。
「外国語の習得は、日常不断の努力が必要です」というような一文だ。
日本語をペラペラしゃべれるようになった外国人の人だって、一生懸命勉強して、練習したからそうなれた。
なぜ、同じことを自分たちの英語学習にはあてはめないのだろう。

小学校英語に対してかつてよくあった反論のひとつが、「母語も固まってないのに外国語入れたら混乱するだろ」であった。
だが、今はそんなことはあまり言われない。
週(168時間)に1時間程度の活動で、母語が揺らぐほどの刺激になりうるはずがないのだ。
逆に言えば、週1時間の活動で、児童が英語をペラペラになると思うことも間違っている(そう期待している世間様もいるだろうが)。

そう。
言語を使えるようになるためには、圧倒的な時間が必要なのだ。
そして、それは母語ではない言葉、外国語を学ぶ際にも。
この当たり前のことがいまいち理解されていないのはとても哀しいことだ。
だからこそ「学校で勉強したのに…」「だから英語教育は無駄…」とかいう俗論が出るわけで。

だから、私はいつもスポーツの話をする。
例えば、イチロー選手。
イチロー選手が「学校での体育の時間でしか野球をしない」人間だったら、大リーガーになれただろうか?
誰も首を縦にふる奴はいない。
彼は放課後や土日にも一生懸命練習したからうまくなり、そして部活でもさらにがんばったから出来るようになったのだ、当然だ。

そこで私は言う:
英語と野球と、一体何が違うんだよ
と。

「うまく使える」ようになりたいなら、練習が必要。
それだけの話だ。
だが、不思議なことで、英語と言う教科は槍玉に挙げられやすい。

家庭科を履修したらみんな家事炊事がパーフェクトになったのか?
数学を履修したらみんな数学者になれたのか?
国語を履修したらみんな小説家になれたのか?

にもかかわらず、英語だけ。
英語だけは、そうならないんだね。

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