ノウハウを最初に求めるのは悪いことなの?

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もしもし!我輩我輩!我輩だって!いやぁ実は事故起こしちゃって、今からいう口座に100万振り込んで(以下略)

こんばんは!研修依存症の我輩です!
元気があれば週末とかに研修によく行きます
研修で学んだことがロクに生かされずに根腐れしてると評判です!

で、そんななかで、たまに思うこと。

「最近の若い教師は、すぐ授業に使えることやノウハウばっかり求めたがる」みたいな意見について。
ポリシーがない、みたいな文脈で使われることが多いように思われる。
で、私はそれに対して「?」と思う。

ノウハウを最初に求めるのは悪いことなの?

特に若い先生なんて、そうだと思う。
どうすればいい?って悩んで当然。

はじめから「英語教師は○○でなければ!」という、ぶっとい精神を持っているっていうことはまれだし、
逆に言えば、それって英語教師として思考が硬直化してるんじゃないの?

「英語教師としての精神」って、
日々の実践や、
英語を学んでいく中で気づいたもの、
授業内で起こったことや、
授業外での学校生活で見たもの、
その教員の学んできた道筋、
そのほかもろもろでできるモノじゃないだろうか?

もちろん、何も考えないまま次から次に試してポイ捨て、ってのはあんまり賢くないけど、
そういうトライアルアンドエラーのなかで、傷ついたり失敗したりして、自分なりの「こうあるべき」を見出していく。

いきなり、誰かの「こうあるべき!」っていうぶっとい精神をぶちこまれても、
それって結局は誰かの借り物じゃないだろうか。

いろいろ試す中で、いろいろなことを感じていく。
そのために、先人たちがいろいろ試したノウハウを求めることは、悪いことなの?

また、こうも思う。
学んだノウハウをそのまま全部何が何でも使う人って、あまりいないのでは?
いろいろ研修会とか言っていろんなやり方を学んだとしても、
「これはちょっと…」とか、
「こっちはあんまりやりたくないな」とか考えて、「やる」もの「やらない」ものっていうのが分かれる気がする。

それはなぜか?

私が思うに、それは、その先生の中にある判断基準が働いているからだろう。
生徒の学力レベルを考えたのかもしれない、
活動内容が面白く思えなかったのかもしれない、
どちらにせよ、そこにその人の「英語教師としての精神」の原型が見えるんじゃないだろうか?

私は常勤講師として勤務を初めて13年が過ぎ、今振り返る。
私は私なりに学んで失敗してきて、私なりの「英語教師としての精神」が、冷凍庫に入れたシャービックみたいに固まりつつあるところだ。
いろんなノウハウを試して失敗して、その先にこの私がいる。

英語教師にだって、「迷って悩んで傷ついていく」過程を、許してほしいな。

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